さくらさくら2009

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    この季節だけは日本人に生まれてよかったと思う。

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2008年4月 2日 (水)

ミュージカル「ゾロ」観劇記

今年に入ってから自分の観劇記(「ウェディング・シンガー」「ベガーズオペラ」)やイベントレポ(千の目~蜷川×藤原、浦沢直樹講演など)がなかなか書けないでいる間に、今日は初キャラメルボックス、初生上川隆也だ~!
で、来週は藤原くんの「身毒丸」です。いきなり千秋楽

というわけで?全然あてにならないわたしのレポはともかくとして、ただいまツアー中のZorro、先日英国で観劇してきた友だちから速報レポ届きましたので、ご紹介します。そのうちもっとちゃんとした舞台レポが届くらしいのですが、これだけでも十分な力作です。っていうか、ホームページの更新する気力がいまないので、(いや、いちおう手はつけたんですけど~)こちらからでごめん。

では、どうぞ。(み~さん、ありがとう!)

ミュージカル「ゾロ」観劇記
2008年3月20日~22日サザンプトン/メイフラワー劇場

久々の舞台復帰をしたアダム・クーパー出演の舞台「ゾロ」を、サザンプトン、メイフラワー劇場にて、計5回、観劇をした。
サザンプトンは、ロンドン、ウオータールー駅から特急で1時間45分ほどのイングランド南部の海沿いに位置するイギリス最古の港町のひとつだ。
ローマ時代にも繁栄を誇り、その遺構も数多く旧市街に残っている。また、タイタニック出航の地としても有名で、港の博物館には、タイタニックの資料も多く展示されている。メイフラワー劇場は、サザンプトン・セントラル駅から徒歩5分ほどの、中規模の美しい劇場だ。平日のマチネーでも、多くの観客であふれ、舞台はなかなかの評判をよんでいた。

「ゾロ」について
「ゾロ」の原作は、ジョンストン・マッカレー作“The Mark of Zorro”「怪傑ゾロ」(1920年発行)の冒険時代小説だ。発行の年にベストセラーとなり、すぐ映画化され、以来、いく度となくTVシリーズ化や映画化されてきた痛快ヒーローものだ。

ゾロの活躍する時代は、19世紀初頭のカリフォルニア/ロス・アンジェルスだ。
史実によると、当時、南部カリフォルニアはスペイン領であり、ロスは当初、エル・プエブロ・ド・ヌエストラ・セノラ・ラ・レイナ・ド・ロス・アンヘレス(天使の女王なる我らが聖母の村)と呼ばれる、砦と村人数百の小さな集落(村)だった。
一帯は、恵まれた気候と豊かな土壌により急激に発展し、元からの住民ネイティブ・アメリカンや、土地開拓をした宣教師たちと、開拓された土地に作られた大農場の主たち(カバリエロと呼ばれる豪族たち)の民衆と、スペイン本国から来ている将校・役人たちが、支配権をめぐって争う状況だった。

舞台について
舞台「ゾロ」は全2幕(第1幕二十場、第2幕十五場)休憩はさんで約2時間の舞台で、ジプシー・キングの乗りの良いラテンミュージックのヒットナンバーを盛り込んだ、ミュージカル舞台だ。
悪の支配者VS民衆=ゾロというロビン・フットのような話し設定になっている。
以下、ストーリー、舞台レポ及び感想を述べるので、ネタバレを避けたい向きは読まれないよう、ご忠告する。
 
ストーリー
民衆に慕われていたスペイン貴族総督ドン・アレハンドロ(アール・カーペンター)を亡きものとして、その後支配者となったラモン大尉(アダム・クーパー)の独裁を、ゾロ=ディエゴ(マット・ラウル)の活躍でラモンを倒し、実は獄舎に繋がれていた総督を助け出して、再び平和を取り戻すという話。

キャスト
ドン・ディエゴ・デ・ラ・ベガ/ゾロ  マット・ラウル
ドン・ラモン      アダム・クーパー
ルイサ         エイミー・アトキンソン
イネス(ジプシー女)  レスリー・マルゲリータ
ガルシア軍曹     ニック・カヴァリエル
ドン・アレハンドロ   アール・カーペンター
従者チェゴ             ダニエル・ジェントリー

舞台「ゾロ」感想
舞台「ゾロ」の最大の魅力は、ラテンのギター曲と群舞、フラメンコダンスだろう。
場面展開がやや目まぐるしいきらいはあるが、全2幕約2時間の時間経過もちょうど良く、楽しめる舞台と言える。
ジプシー・キングの往年のヒット曲が盛りだくさんの音楽はラテンのリズムも楽しく、その曲に乗せての群舞は、振り付けも良く、気迫があり、また、フラメンコは情熱に満ちて熱く魅了させてくれた。
特に、第1幕、7場の村の女たちによる独裁への怒りの群舞Por La Libertad ! は、椅子を床に打ち鳴らし、「シカゴ」の女囚たちのダンスを思わせ、なおかつ凄みと迫力があり、必見だ。
また、フラメンコは、かき鳴らすギター共に、激しく、切れが良く、陶酔出来た。
男性のフラメンコが、あのように激しいものとは、今回初めて知った。
一箇所のみ、クラシックの振り付けで、男女が幻想的なパ・ド・トゥを踊るシーンがあるが、白鳥を思わせる振りがあり、その箇所のみ、振り付けはアダムではないか、と思われる。
心に残る美しいパ・ド・トゥだった。

第2幕最初には、Zマークを胸につけられたラモン/アダムの怒りのソロフラメンコの見せ場もあり、切れの良いダンスを堪能出来た。ブーツを踏み鳴らしての踊り始めは、休憩後のややざわめきの残る場内を一気に静まらせる迫力だった。ただし、アダムのソロダンスが見られるのは、ここ一箇所のシーンのみ。アダムの出演を乞うなら、もっとダンスの見せ場を増やすべきだ。最後のカーテンコールでは、群舞のダンサーたちより、きれのいい動きで大いに踊りまくっていたが、それを舞台の中でももっと見せてほしかった。
また、久々に見たアダムは、1年余りのブランクのためか、肩から胸あたりの筋肉が若干落ちて、本当に鍛え上げられたダンサーの体形とは少し違ってきているように見えたのは残念だったが、こうして舞台復帰して公演を重ねていけば、すぐに鍛えられるだろう、との希望は持たれる。

アダムの歌に関しては、ラモンの歌とアダムの声質が合っていないため、無理な発声で、やや声枯れしている懸念があり、今後の公演が心配だ。
「ガイズ&ドールズ」の時のような歌による感動はなかった。
ゾロ/ディエゴ役のマット・ラウルは、当たり前の事だが、非常に歌は上手い。声量豊かに歌い上げる。声が、佐々木功のようだ、と指摘する者があり、確かに、彼が「宇宙戦艦ヤマト」を歌っても違いがわからないだろう、と思われるほどだ。
ただし、顔もダンスもダメで、肝心のアクションに至っては、ゾロマスクに隠されているとはいえ、あきらかにまるきり別人のスタントが出て来たのは、まったくお笑いだ。残念ながら、往年のゾロを演じた俳優たち、ガイ・ウイリアムズ、アラン・ドロンなどにあったゾロとしてのカリスマ性も一切感じられず、これは、あくまでも歌で選ばれたキャスティングだったのだ、と思った。

嬉しい驚きだったのは、あの「ガイズ&ドールズ」で、シカゴの大ボス、ビック・ジュウリーを演じて、大いに観客を沸かせていたニック・カヴァリエルが、ガルシア軍曹役で、今回もまた、ラモンの部下ではあっても、憎めない人のいい軍曹役で、いい味を出していた事だ。特徴的体形といい軽妙な演技といい、歌もなかなかの声量で、貴重な人材だ。この舞台の評判を高めるキャスティングだと思う。

衣装は、ラモンのスペイン将校の軍服はじめ、ジプシーたちの衣装、村人たちの粗末な衣装、祭りの際の着飾り、ともに役柄に良く合っているもので好もしいものだったが、難を言えば、ジプシーたちの衣装をもう少しカラフルなものにすれば、より舞台が華やかになったのではないか、ということが言える。

次ぎに、この舞台脚本とキャラクターの設定について述べる。
これは、悪役ラモンがアダムだ、というアダムファンによる評なので、その点は了承いただきたいが、それを差し引いても、このストーリー展開には、大いに不満が残る。

実は、異母兄弟だったという設定は、余計なものではないか。
脚本家のねらいとしては、青年ディエゴの成長を描いて、正義は勝つ、と痛快なヒーローものに仕上げたかったはずだが、余計な設定が入ることにより、話が違う方向に行ってしまった。
肝心の、ゾロとなって活躍するディエゴ(弟)の人物像は、あまりに軽佻浮薄すぎて、共感が出来ない。
対する悪役ラモン(兄)は、虐げられて育ち、痛ましいほど権力に固執して疑心暗鬼している様が、悪鬼のような存在というより、むしろ哀れさを感じさせる。
ラモンとて、いきなりクーデターで軍を統率出来る立場になったわけではなかろう。多分に総督/父親のひきがあってこそだったと、推測出来る。
父親としては、ここまでの地位につけてやれば、上出来という気もあったのかもしれないし、ラモンもそのあたりで、誤解をしたかもしれず、双方、裏切られたという気持ちになって生まれた悲劇なのだ。
それならそれで、ラモンの心情を詳細に語らせる場がひとつくらいあっていいはずだがそういう場はなく、ラモン一人の場は、ゾロへの復讐を誓うソロダンスだけで、あとは総督/父親を地下牢から引き出しての短い場で、その思いの断片が語られるのみだ。
このような、同じ兄弟が、父親の愛情を廻って争うという手の話は、カインとアベルやギリシャ神話の時代からあり、目新しい話ではないとしても、腹違いの兄弟が、片方は父親に愛され、片方はさげすまれて疎まれるというのは極めて不条理で、楽しめる話ではなく、痛快な冒険活劇ミュージカルにこの主題を持ち込むのは疑問だ。
まして、その差別理由たるや、片方は貴族の純血種で、片方は雑種だから、というのが噴飯ものだ。元は、といえば100%父親本人の責任に帰する事で、息子たちは被害者だ。
一番納得出来ない点は、この悲劇の元を作り、息子たちの教育を誤った総督(以下親父)本人があくまで被害者面をしている事である。
一番悪いヤツが、最後の大団円で、正義は貫かれた、などと偉そうな演説をするのが、実に皮肉だ。
この場合、正義を貫くなら、倒すべき相手は、ラモンではなく、親父だ。
だから、ラモンが最後に銃を向けたのは、憎むべき相手と思っていたゾロ=弟ではなく、親父だった。ラモンとしては、正しい事をしようとしたのだが、それを果たせずして、ディエゴに倒されてしまうという「ラモンの大悲劇」は、あまりに哀れで痛快な結末とは言い難い。
舞台向きに、原作に手を加えて面白くひねったつもりだろうが、いく度も出て来る“高貴な血筋”だから、とかそうではないから、という台詞は、共感出来ぬ不快な違和感がある。
これは、ノーブレス・オーブリージュが主題なのか?イギリスという国ならではの展開だな、と妙な納得と憐れさを感じた。

このストーリー展開で、兄弟という設定に拘泥したいなら、むしろ逆にラモンが実の息子で、ディエゴは、腹違いの弟という設定にした方が、ずっと自然で納得出来ると思う。その上で、ラモンがメインの話にして作り変えてもいい。
最良と思われるのは、原作のように、血縁関係一切なく、ラモンは不気味で理解しがたい、権力固執の悪魔として描いた方が、より悪役としての凄みも増して、ゾロの話として理解出来たのではないか。
余分で不条理な設定で、本来「ゾロ」の持つ、勧善懲悪痛快なヒーローものという面が半減され、ストーリー的には、中途半端で何か釈然としない終わり方の舞台となってしまった。
キャラの設定と、脚本の再考を促したい。

ただし、ストーリー的に納得出来ぬところはあれども、それらを考慮しても、なお、音楽とフラメンコ、群舞の素晴らしさで、この舞台は、おおいにお勧めしたい良い舞台だ、と言える。

群舞のフラメンコダンサーの中に、ひときわ光る逸材が居た。
名前は、ファビアン・トーマ。
今後の楽しみが増えた。

☆み~  2008/03/31

付記 サザンプトン公演最終日、アダムのお兄ちゃんが来ていた。何故か、相変わらずあのヴァルモンの時のような坊主頭だった。

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